2015.01.03
- tokyoPop
episode#01
ハイスクール・スピリットの誕生~渋谷のポップな放課後カルチャー
TOKYOのポップカルチャーを語ろうとする時、1983~1986年は「最初の80年代(アーリー・エイティーズ)」として区切られるべき時代だろう。なぜならその数年間は“ある年齢層”が渋谷を舞台に街文化を描き始めた時期で、1987年は狂乱のバブルが幕を明けた年でTOKYOの表情が一変したからだ。
しかし、「最初の80年代」における若者文化の主導権はまだ大学生や20代の社会人にあり、女たちのアカデミーアワードも女子大生が依然として主演女優賞を継続中だった。この時期のTOKYOに強く描かれた光景──学生企業やイベントサークルブーム、TVバラエティ『オールナイト・フジ』や元祖トレンディドラマ『男女7人夏物語』、DCブランドやボディコンスーツ流行、マハラジャやエリアなどの六本木界隈の宮殿ディスコ乱立、カフェバーやプールバー人気といったものすべてがそれを象徴している。
そんな中、メディアが発信する情報や大人たちが提供する場所に踊らされるのではなく、自分たちの手によって流行や現象を起こそうとする動きが出てくる。“ある年齢層”というのは、この時代に高校生になり始めた世代(1967~1970年生まれ)のことで、TOKYOではまだ脇役だった彼らの登場こそが、実は「最初の80年代」の最も特筆すべき部分だ。
それまでの高校生はデビューしても(街へ出て遊ぶようになっても)、若者の代名詞であった大学生に同化しようとする予備軍的なルールがあった。だが1983年、渋谷で1本の伝説的な青春映画『アウトサイダー』が公開され、尾崎豊(*1)が「15の夜」と『17歳の地図』でデビュー。同年には東京ディズニーランドも開園して、深夜のMTVでマイケルの『スリラー』やマドンナを観られるようになった。アメリカナイズされたTOKYOの一部の高校生=空想的な男子には仲間での友情結束意識、現実的な女子にはポップな色彩の恋愛模様が芽生える。
主導したのは、有名付属校に通う都心の男子高校生たちだった。TOKYOを身近なものとして感じることができる地元感覚。遊びや流行をいち早く手にするための経済的余裕。交友ネットワークを広げるためには最適の場である私立の通学圏。異性との出会いを強く求める男子校。大学受験に膨大な時間を奪われることのない3年間。こうした恵まれた条件が備わっていなければ成立はしなかっただろう。
高校生であることのプライドを表現する場として、西武や東急によって若者と女性が歓迎されるムードが開発されていた渋谷がメインステージに選ばれた。彼らは学校が終わった放課後に毎日のように繰り出しては、知恵や喧嘩を学びながら独自のムーヴメントを夕暮れ時の街に描いていく。
まずは、クチコミという一大情報交換網の確立。学校関係を越えた空間=溜まり場(*2)での会話を通じて、最先端を行く高校生としての世界観や遊び人/不良の美学を磨いた。
次に、イベントサークル系の大学生からサンプリングしたディスコパーティ。ボーイ・ミーツ・ガールや小遣い稼ぎを目的としながら毎週土曜に渋谷や六本木のハコ(*3)で開催され、「パーティを打つ」ために同じ学校の仲間同士で「チームを組む」(*4)ようになった。
そして、背中にチーム名がデザインされた揃いのウインドブレイカーやスタジャンなどのチームオーダーもの(*5)を制服の上に着て渋谷を闊歩。デム・ジャムのヒップホップがパーティで鳴り響いた1986年には高校生カジュアル第1弾アメカジが発信され、翌年には雑誌Fineなどの掲載で「アメカジチーム」(*6)として知られるようになった。
同じような環境にいた女子たちにも、ソニープラザやルイセットといった渋谷の放課後の寄り道コースが開拓され、レスポやセサミストリートのキャラクターグッズは学校へ一緒に連れて行く定番になった。ジョン・ヒューズの学園映画も17歳のロックアイドルのチャーリー・セクストンも、ラルフ・ローレンのVネックスクールセーターも制服の足元のオシャレなハイソックスも、ポップな彼女たちのクチコミがもたらしたアイテム(*7)だった。
こうした輝かしいハイスクール・スピリットの誕生は、次の「バブル80年代」期に入ると高校生人口ピークや経済景気上昇を背景に、一部の私立付属校生からTOKYOに出入りする高校生へと一気に広がりを見せていく。そして渋谷という街自体を自分たちの欲望が何でも手に入る場所へと変えていく。
(episode#02 へ続く)
(*1) 尾崎豊は渋谷区の有名付属高校に通っていた。歌詞にはTOKYOの光景が綴られていた。
(*2) 煙草が吸える貴重な喫茶店のほか、ジャック&ベティやトップドッグなどのアメリカンな店が代表的。どこの学校の○○チャンが可愛いとか、○○クンがカッコイイとかは一番の盛り上がり。
(*3) 渋谷ラ・スカーラ、キャンディ・キャンディ、ビッグ・アップル、パラディアム、スターウッズ、六本木ジル、ウィズなど。高校生が借りることはできないので“大学生”を活用。
(*4) 明大中野のファンキースや複数の学校によるウィナーズが元祖と言われている。1968年生まれの女流作家・鷺沢萠がこのあたりのシーンを短編集『少年たちの終わらない夜』などで唯一描写していた。
(*5) バックドロップなどの店で注文。後年、クラブ活動や仲良しグループの間でも大ブームになると、チームオーダーは見向きもされなくなった。
(*6) 数年後にストリート化して「センター街チーム」の時代へ突入する。
(*7) この頃ブームになっていた現役女子高校生たちを看板とした番組『夕やけニャンニャン』やおニャン子クラブは、郊外や地方向けのTV文化に過ぎない。
- 中野充浩
文筆家/編集者/脚本家/プロデューサー。学生時代より小説・エッセイ・コラムなどを雑誌で執筆。出版社に勤務後、現在は企画プロデュースチーム/コンテンツファクトリーを準備中。著書に『デスペラード』(1995年)、『バブル80’sという時代』(1997年)、『うたのチカラ』(2014年)など。「TAP the POP」で音楽と映画に関するコラムも連載中。