2017.04.05
- The ABC\’s of International Marriage
違うことが前提なので、尊重しあえる
私は英語が堪能なわけでは無いので、ボキャブラリーが少なく、かえって英語の方が自分の気持ちをダイレクトに表現できることがある。普段なら、「愛している」という言葉なんて日本語ではこっぱずかしくて奥歯にモノが挟まってしまうようでなかなか言えないけれど、英語なら何度でもいえるよ「I LOVE YOU!」。
英語で恋愛した時の自己発見が、コレ。例え英語ではなくても外国人だと、ちょっと呟いたことをやってもらってなかったとしても、聞こえなかったのかな、とか理解出来てなかったのかな、頼み方が悪かったかな、と自分に矢印を向けることが出来る。ただ、日本人だと違う。私の場合、「ええー!お願いしたのに、やってくれなかった!」とネチネチと恨みつらみが募っていくのだ。
言語や文化背景を共有しているという前提が、分かって当たり前として少しした齟齬を肥大化させる。だからか、日本人とはうまく行かなかった。
人間みんな違うということは頭では分かっていても、意外と根底では「空気読めるでしょう?」となってしまい、日本人独特の高度な気遣いまで求めて、大抵の単純な男に失望し怒り、男もその怒りを察して去って行ってしまったのだ。
日本文化を再発見出来る
先日、ドイツに帰省していた際におじいちゃんが張り切ってウサギのディナーを出してくれた。初めて口にしたそれは、鶏っぽくて、夫に「鶏っぽいね!」というと、「日本でも、兎は一羽二羽と数えますし!」という返答。(昔四足動物を食べない僧侶が兎を食べる言い訳として鶏とした説がある。)また、ミカンを食べようとすると「海外ではミカンのことを『サツマ』と呼ぶんです。昔ミカンを持ってきた船が「薩摩」だったかららしいです。
」とチョコチョコ小ネタが入る度に関心する私。そうそう、こういうオタク気質なところ、尊敬できるのよね~って。
確かに、夫の周囲は特殊かもしれない。「日本語勉強してました」というフィンランドの大学の同級生。「空手やってます」という、いつも泊めてくれるフィンランド人の友達。「日本に行くなら講道館に行かねば」というドイツ人の義理の兄。「禅の道場やってます」というドイツ人の義父。夫も柔道の免許も持っており、冒頭のように事ある毎に私の知らない日本についての知識が出るので、日本人の私としては非常に赤面ものなのである。先日フィンランド雑誌に日本の食卓の取材を受けた際、フィンランド留学の経験がある友人も立ち会ってもらった。お盆の話になり、友人がお盆についてスラスラとー英語で話している脇で、私はえーーーと沈黙。(実はあまりお盆について理解してなかったし、更に英語での説明は出来んかった、、、)と、これまたこっそり赤面していた。
恥ずかしい思いをしながらも、一つ日本の事を再発見出来た喜びも感じる今日この頃。
海外の出来事も主体的に受け留められる
圧倒的に、海外在住の友達が増えた。今まで、旅行で様々な国を巡ってきたが、でもやはりそれは表面的な体験であり、実際に暮らす友人を持つのとは全く異なる。
まず、夫はドイツ人とのハーフであり、未だに海外ではナチスのことをなじられるらしい。日本でもアンネの日記やシンドラーのリストによって、その歴史的事実を知らない人はいないだろうけれど、それはコンテンツの世界の出来事としてであって、そんな悲惨なことがあったんだーとは思うけれど、ドイツ人に会ったからと言って、ドイツ人を非難したりはしないけれど。。。
また、アメリカのコロラドの乱射事件も映画のような出来事だと思っていた私にとって、そこに住んでいたという夫が急にリアリティの風を吹かせる。実際に一緒に行った南米や欧州は、今までスクリーンの中のような印象だったのが、リアリティを持てることは、国際結婚の一つのメリットではないだろうか。
3.11の震災や原発事故についても、海外のメディアや米軍の友達(しかも原子力空母ジョージワシントンのエンジニア!)の見解が入って来て、如何に日本のメディアが単一でフィルターが掛かっているかを痛感している
。やはり、様々な角度から情報を入手出来るという意味で英語力は必要のような気がする
。(そして、英語があまり出来ない私は夫から海外情報を入手して国際結婚のメリットを享受しているのだけれど、、、)