2015.06.08
- BIRTHDAY STORIES
Birthday Stories Vol.02
『今夜、きっといい夢を見る』
狗飼恭子
わたしはもうあの人を好きでいられないのだと気づいた夜、ほんの少しだけ悲しくなった。ほんの少しだけ。少しだけだけれど。
片思いの終わりは随分と呆気がない。
他者(すなわち彼の恋人)の出現によって、こんなにも簡単に消えてしまうものなのか恋とは、と、他人事みたいに思った。「それでも好き」ってがむしゃらに追いかけられるほど、今のわたしは強くなかった。
ベッドに入ったのはもう二時間も前だ。
けれど、まだ眠れない。嫌な夢を見てしまいそうで、目をつむるのが怖い。
枕元の携帯電話を手に取って、検索画面に『恋愛 馬鹿みたい』と入れてみた。
引っかかった幾つかの言葉をスクロールしながらぼんやり眺めていたら、知らない誰かのツイッター画面が現れた。
『悲しいときは恋愛映画を観る。登場人物たちの豊かな表情を観ていると、泣けない自分が馬鹿みたいに思えて笑える。』
アイコンは陸亀の写真だった。
わたしは今、どんな表情をしているのだろう。分からなかった。感情と表情が連結しているのは、心が健康な人だけだ。
ふと、陸亀アイコンをフォローしてみた。深い意味はないけれど。
そろそろ目をつむろう。
今夜は夢を見ませんように。心の中でそう唱えて、冷たいタオルケットをかぶった。
次の朝は寝不足だった。
朝御飯も食べずに適当に化粧をして、通勤電車に飛び乗った。相変わらず満員でうんざりだ。着ているシャツの袖に変なしわが寄っているのも気になる。
携帯でツイッターを開いてみたら、フォロワーが一人増えていた。昨日の、陸亀アイコンの人だった。知らない誰かがわたしの存在に気づいた。それってなんだかすごいことのような気がする。
その朝は、少しだけいつもと違う気分で会社に向かった。
『今年の暫定ベストワン。』
陸亀アイコンが土曜日に観たと呟いた映画を、日曜日、ひとりで観に行った。
東京では渋谷の一館だけでの上映だから、彼も同じ映画館で観たのかも知れない。内容はよく分からなかった(ウクライナ映画なんて初めて観た)。けれどいつもだったら選ばない映画を観るのは、なんだか新鮮だった。
映画館を出て適当に町を歩いた。彼とどこかですれ違わないかな、と少しだけ思った。
『今日は誕生日だけど一人で映画。』
その呟きを見たのは、午前0時過ぎ。
眠る前に彼のツイッターを開くのが、最近のわたしの習慣になっていた。
今日、がこれから始まる日のことなのかそれともさっき去っていった日のことなのかは、分からない。確実なのは、昨日か或いは今日、彼が誕生日を迎えたということ。
しばらく迷って、『お誕生日おめでとうございます。』というメッセージを送ってみた。
さらに少し迷って、Starbucks eGiftも送った。映画を観て、それからフラペチーノを飲みながら映画の感想を言い合ったりできたら、きっと楽しい。
『いつか一緒に珈琲を』
書きかけて、メッセージを消した。彼のことを知らないままでいるのもいいな、とタオルケットの中で思った。タオルケットは清潔で、石鹸の匂いがした。
知らない人の誕生日を祝えるなんて、わたしはまだまだ大丈夫だ。
そう思ったら少し笑えた。
わたしは今夜、いい夢を見る。
そんな気がする。
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狗飼恭子
1974年、埼玉県生まれ。小説家、脚本家。1992年、第1回TOKYO FM「LOVE STATION」ショートストーリー・グランプリで佳作を受賞。翌年、『オレンジが歯にしみたから』でデビュー。95年に小説第一作『冷蔵庫を壊す』を刊行。著書に『南国再見』『愛のようなもの』『低温火傷(全3巻)』『遠くでずっとそばにいる』(幻冬舎文庫)などがある。最新作は、『東京暗闇いらっしゃいませ 中目黒楽日座シネマ』(メディアファクトリー文庫)。映画『スイートリトルライズ』『百瀬、こっちを向いて。』では脚本を担当。